昭和44年11月22日 朝の御理解
中村良一
御理解 第21節
「信心せよ。信心とは、わが心が神に向かうのを信心というのじゃ。神徳の中におっても、氏子に信なければおかげはなし。カンテラに油いっぱいあっても、芯がなければ火がともらず。火がともらねば夜は闇なり。信心なければ世界が闇なり。」
いよいよ、わが心が、神様に向かうていくという事が信心だと教えておられます。信心なければ世界が闇なりと。という事ですから、信心によって、それぞれ、お互いの心の中に、光を頂くという事。信心を頂くことによって、心に光を頂く。その光を頂くという事に、焦点を置いて信心をさせてもらう。しかも、あの光が、段々、小さい光から、大きな光に変わっていくと。大きな光になっていくという事を、楽しみに信心していく。それが信心なんだ。ですから、何十年、例えば、信心を続けておりましても、いわゆる、おかげを、ご利益を求めての、これが信心であったら、心に、信心の喜びと、心に光と言う様な事はないです。ね。信心の光というのは、例えて申しますと、どの様に、暗い思いをするような時でも、ね。暗い思いをせんで済むおかげを頂いて、はじめて、心に信心の、いわば、灯火がともっておるという事が言えるのです。ところが、その自分の思いを、神様に、あるったけ申し述べて、で、それを、一つ一つ、成就してもらおうと言うような事の為の、もし、信心であるとするならね。そういう事にはなってこないのです。その、おかげを受けたから、嬉しいとか、喜ばしいというのは、それは、信心の喜びじゃなくて、おかげの喜びなんである。ご利益の喜びなんである。頂いたおかげというものは、必ず、何時までも持ち続けることは出来ません。限りなく、おかげを受けて、初めて、限りなく喜べるのですから。ね。限りなく、おかげを頂くという事が、信心の喜びという受けものを持って、限りなく、おかげを受けていく。いうならば、願わんでもおかげを受けている。受けることが出来るというのが信心です。まぁその事は、皆さんも、十分、分かっておられる事だとこう思うですよね。まぁ、日々、この事ばかり、私が申しておる事ですから。ところがね、本当に、それをそうだと、精進しておる人は少ないんです。分かっておるけど。ね。自分の信心を見極めて、はぁ自分の信心が、いかにも分かった様に言いよる。頂いたもののように思うておるけれども、頂いておるのじゃないなぁと、分かっておるんじゃないなぁと。実際、その時に、言うなら、本番に当たってみると、明るい、信心の光どころか、ね。やっぱり、同じ、暗い思いをしておると。いうならば、それは、まだ、信心の光というところまでは行っていない。ですから、その事を、本気で頂くという事は、もう本気で、いわゆる、何事にも信心になれよと仰る。何事にも、信心になれることに、一つ、本気で取り組まなければいけませんですね。何事にも信心にならせてもらうという事。
神徳の中におっても、氏子に信なければ、おかげはなしと。カンテラに、油いっぱいあっても、芯がなければ火は灯らん。そらそうですね。芯と言うのは、いわゆる、例えば、ローソクならローソクでも、芯がなからなければ、ローソクだけでは、火は灯りませんね。中に芯が入っておるから、灯るのです。ランプをつけてもそうです。ね。芯がなからなければ、ね。油が、そこにいっぱいあっても、火は灯りません。よじみと申しますね、そのランプの芯は。よじみが入っとらなかったら、火は灯らんのです。電気でもそうです。ね。電球そのものが、線が切れておったら、火は灯らないです。どんなに、百燭光の電球でございますと言うても、百燭光だけの光が、そこには灯らなかったら、やっぱり、闇ですはね。線が切れておる事に気が付かない。これじゃ、ここまで、いわば、電流が来ておりましてもです。どんなにスイッチを押しても、明かりは灯らんのが当然。芯がなければ火は灯らん。そこで、私は、今日はその、芯という事がね、分かっておりますと。もう、何時も聞いておりますと。という事ではなくて、本当にそうだと、ね。火がともらなければ心は闇なりと。世界が闇だと。という事なのですからです。何時も、心に神様を向ける芯。何時も、心を神様に向ける芯。何事にも信心になれよという芯。今、私が思おうておる事、言うておる事、しておる事。それが、何事にも信心になれよと。いうなら、真心になれよと。神心になれよと言われておっても。信心とは、心づくしだ。さぁ、心を尽くさせて頂いておるかという様にです。自分の心を、何時も、こう検討していく。そして、言うておるのである、行動しておるのであるという事。なかなかね、それを、行動したり、言うたりしておるという事でも、なかなか深いものです。何時もそれを、心に掛けておかんと、その芯が出てまいりません。
昨日も、朝の御祈念の後に、吉井の熊谷さんが、お届けをなさっておられます様に、自分の言うておる事が本当だと。そらお互い、信心でもさせて頂きますと。いわゆる、本当の本当を教えて頂きますからね。天地の道理を分からせてもらう。天地の、言うなら、法則を知ることが出来る。いわゆる、真理と申しますかねぇ。いわゆる、本当の事なんです。それを、信心させてもらって、分からせて貰うのですから、ね。これが本当だという事を、例えば、親が子に、言うて聞かせるとしますか。自分の周囲の人に、言うて聞かせると致しますか。けれども、それはその、本当な事だからと言うて、言うて聞かせてもです。相手がそれを、本当な事とも思わなければ、それを聞こうともしなかったら、駄目ですもんね。自分の言うておる事が、本当な事だと思うて言うておる。なるほど、本当な事かも知れません。けれども、相手に、それが響いていかない。相手に、そうだなと、納得させきらない。ね。
人間は、本当に、信心をするという事が、もう当たり前なんだ。そして、神恩報謝の生活をする事が、人間の本当の姿だと。本当な事だと言うて、それを、ほんなら、子供が、言うことを聞かなければ、つまらん事である。自分の言っておる事が本当だと思うて、ものを言うておるというのではなくてね。初めて気がつかせていただいたんですけれどもと言うて、昨日、言うておられますのに、相手が助かることの為に、言わなければならんと言うておられます。
私は、それを聞かせて頂いてですね。、私もそれを思いました。相手が助かることの為に、言うておらなければいけない。ね。そこでは分からなくても、そこでは言うことを聞かなくても、相手が助かることの為に、言うという事は、相手が助かることの為に祈っておるということなのですから、ね。それが、必ず、何時か、もの言うて来る、その事が。何時か、必ず、生きてくると、私は思うのですね。例えば、信心共励会なんていう時には、自分の生き方が本当だと、こうでなからにゃいかんと。なるほど、話し聞きよって、そうだなぁ、そうだなぁと思うて聞いておる。もう本当に。ところが、それが、一つも、聞いておる者が、実行にも現さなければ、そういうふうな働きになって来ないとするならですね。その人が、自分のことが本当だと思うて、本当のことを教えておるだけの事ですから。それじゃ、やっぱりいかん。本当のことをやっても、それを押し付けておるのである。ね。それは、自分が言うておる事は、まだ、本当であるかどうかは分からないけれども、例えて言うと。けれども、私自身が、その事で、そういうあり方で、いわゆる、今日の御理解で言うなら、心に灯火が点じておるように、心を何時も、安らかに、明るく過す事が出来るんだと。本当だか、本当でないか、それは、本当のことは分からないけれども、ね。あなたが、そんなに、暗い思いをしておられるなら。あなたが、その様に難儀をしておられるなら、ね。と言う思いで、あなたが助からん、この人が助かられることの為に、ものを言うと。でなからなければいけんという事を、悟りましたと言うて、昨日、言うておられました。確かにそうです。相手が助かることの為に、ものを言わなければならない。ね。不思議ですよね。信心をもってものを言う。という事は、その様な事なのです。
私共は、信心話を、一生懸命、本当のことだから、言うて聞かせる事が、もうそれで、信心の様に思うておった。ところが、そうではない。信心で、ものを言うという事は、相手が助かられることの為に、ものを言うのでなからなければ信心じゃない。何事にも信心になれよと仰るけれども。ものを言うという事にですら、その様に、気が付かないでおる事が、沢山あるのですからね。相手が助かられることの為に、ものを言う。ですから、もうそれは、既に、信心であり、神心であり、また心を尽くしておるのであるから、相手がよし、聞かなくっても、ね。それに、言わにゃ良かったとか、話さねば良かったとか。この人ばかりは、言うて聞かせても同じことだと思わんで済みますね。自分が、既に、神心で言ってるんですから。ね。人が助かることの為に、ものを言うておる事、ね。これが信心だと信じて話しておるのですから、ものを言うておるのですから。
共励会などでお話させて頂く。本当に、自分が、心の中に、火をともしておる様な、おかげを受けておる事を、人に聞いてもらうでもです、ね。本当に、こういう光を、この人に受けてもらいたいという、親心と言うか、神心というか、いわゆる、信心をもってです。人が助かることの為に、言うならば、懇々と、切々と説かせてもらう。ね。
よく、もうこれは、私の、信心過去においてですね。共励会等で、お話をしてくれと言うので、お話を致します。確かに、おかげを受けております。ですから、それをもう、とうとうと、いわば、まぁ、お話を致します。まぁ案外、自分の話したことが、みんなに受けたというふうな気が致します。気分が、ちょっと良いですけれどもね。後になれば、後になるほど、淋しゅうなって来ることがある。自分のお喋りをした事がです。段々、淋しくなって来る。ね。いわゆる、物言えば、唇さみし秋の風である。ね。言うて、段々、有難うなって来るという言い方。ものの言い方。言うて、段々、淋しゅうなっていくという言い方。それは、如何にも、信心話であっても、それがね、信心でない証拠なのですから。これが、言うことだけではない、行うことにおいてもしかり。全てそうです。何事にも信心になれよと。させて頂いて、自分が有り難うなるような、させて頂く頂き方でなければいけんのです。
お掃除一つ、させて頂くでもそうです。させて頂いた事が有難い。もう、自分ばっかりで、せにゃならん。今、掃わいたら、もう散らかすと言った様な事ではいけないわけですよね。させて頂いても、させて頂いても。はぁまた御用させて頂けれるという、させて頂き方こそが、御用である。何事にも信心になれよと。お掃除一つでも、信心でさせて頂こうと言うのである。ね。
相手が助かることの為に、私共が、ものを言う。ね。それはもう、ちょっとした事でもそうなのである。お話という事ではなくてもそうなのである。ね。相手が助かられることの為にものを言う。それは、ほんなら、あの、返事をするという様な事でもそうである。相手が喜ばれる事の為の返事でなからにゃいけんという事になる訳ですね。いわゆる、何事にも信心になれよと。ね。そういう信です。そういう芯がなからなければ火は灯らん。そういう心が、何時も、心の中になからなければです、ね。火は灯らない。信心なければ世界が闇だと。
昨日、私、お話をしようと思うておった事を、お話し忘れておった。それで、後で思い出させてもらった。私は、先日、高塚のお地蔵さんにお参りした時の話をさせて頂いた。ね。ああいうお湿りの中でも、やっぱり、三々五々、お参りがあっておりましたよ。お天気でも良い日だったら、相当、やっぱ、お参りがある事だろうと、こう思われます。ね。本当に人が、本当の意味で助かる。本当のことが教えられる。
えー、大阪の玉水の教会長です。当時の教会長、初代教会長、井川先生に、もう、あちらなんかは、もう朝もなからなければ晩もない。何時も、御大祭のようにお参りがあっておるんです。私も、一二回、おかげを頂きましたが、もう何時もが、ここの大祭のようです、お参りが。ね。ですから、その、ある先生我です、もう、こちらの教会は、大変なお参りが多いと言うて、その、まぁ感心して話されたところが、あぁ、大阪駅を見てごらんなさいち言わっしゃったげな。大阪の駅は、まぁだ、こんくらいのこっじゃありませんよち。大阪駅は、ね。旅行する人達が、どこどこまで行くといった様な事だけで、あんなに人が多いでしょうがち。ここでは、人間が、真実、幸せになる、本当に助からせて貰えれるところだけれども、このくらいな事では、神様に対して、まだ相すみません言わっしゃったですね。そらそうですよねぇ。なら、合楽の教会でもそうです。ここでは、信じられる人間が、幸せになる事の為に、一生懸命、私は、お話をしておる。お取次ぎをさせて頂いておる。ね。それなのにです、ほんなら、ご利益専門の所の、ご利益、ご利益と言うて、幸せを得るのではなく、おかげを得る、いわば、そのお店に、人が多いと言う事はです。本当に、相すまん事だと、こう私は思います。ね。もう、それこそ、朝もなからなければ夜もない。
最近、福岡から、夜の御祈念に、わざわざ参ってくる、夫婦の方があるんです。はぁ、朝の御祈念は、まぁいうなら、夜の御祈念に、福岡辺りからまで、お参りがある。必ず、夫婦で参って見える。ね。ですから、本当の幸せのことのために、これだ、ここだとこう感じたら、福岡からでも、お参りが出来るのである。ね。それを、みんなに知らせてあげなければいけない。ところが、なかなか、言うたぐらいの事では、いわば、なかなか、本当のものを求めてという様なものは、なかなか少ない。ね。そんな事を、私は、その、相すまんことだなぁと。こういう、素晴らしいことを教えて頂くのに、このくらいの人達が、まぁ集まってくるぐらいのことじゃ、神様に対しても、相すまんなぁと思わせて頂いておりましたらね。ここの脇殿です。皆さんが、上がって見えるところ。あそこに、下駄がいっぱい、脱ぎ散らかしてあるところを頂くんです。それも、こんな風にして上がってあるんですね。他所の、普通の家で言ったらですね、後ろを向いて上がるところもありますね、履き良い様に。そして、ここでは、必ず、横を向いて上がりますね。必ず、横を向いて上がります。これはまぁ、金光教の、一つの、そういう、まぁ風が、何時の間にか出来た。横を向いて上がる。あれは、神様に、お尻を向けないという様なところから、あぁいう事になった。また、履き良くもある、脱ぎ良くもあるですね、横を向いて上がるという事は。ね。だからこう、横を向いて上がるのではなくて、こう、いきなり、もう、来たが最後、ぽんと脱いで上がるという。こういう風に脱いである訳です。それが、いっぱいある。だから、こう言う信者が、千万集まったところで、同じだと、神様は言うておられると、私は気が付きました。いうならば、ご利益だけは求めてくる信者が、千万集まったところで、同じだと。ね。それよりも、それは五人でも良い、十人でも良い。本当に、自分の足元を、きちっと、揃えて上がってくるような信者。いうなら、自分の足元を、本気で見極めさせてもらえる信者。いや、自分の心の奥の奥を、いよいよ、分からせて頂こうと願う信者。そういう信者が集まって来る事を願えという事であったと、私は思うた。ね。
これと同じ様な事が、阿倍野の教会にも、片島センという、大変、御神徳を受けられた先生の所にも、そういう話がありますね。ある時、それこそ、大変大きな、手洗い鉢の奉納があった。それで、御神前に出られて、片島先生、どうぞ、あのお手洗い鉢のお水が、一日で干上がってしまうような、沢山の信者氏子をお集め下さいと言うて願われたら、ね。神様から、それこそ、取って押さえるように、神様が、片島セン先生に仰った。此の方島先生と言うのは、もう、いちいち、神様から、お伝えを受けておられるほどしの御神徳を受けられた先生です、女の先生。どうぞ、このお手洗い鉢の水が、毎日、干上がってしまうほどしの信者氏子をお集め下さいと言うて、お願いをされたところがです。神様からね、このお手洗い鉢の水でです。心を清めると思うて参ってくる信者を集めてくれと言うて、なぜ願わんかと仰ったそうです、神様が。いうなら、ここには、清まりげ来るんだという信者を集めてくれと願えとこう仰っておられる。ね。お手洗い鉢の、その大きな水が、干上がってしまうほどしの人間を集めてくれという事が、如何に、神様が、お喜びにならんかという事が、それこそ、千万の信者が集まっても、おかげだけを求めて来るような信者だったら、神様の目からご覧になれば、それは、実につまらない事であると言うことであるという事。例えば、五人でも十人でも良い。ね。本気で、真の信心を分からせて頂こう。本気で人間の、本当の生き方、あり方を分らせて貰おうと。ね。日々、喜びの生活が出来ることのために、信心の稽古に通うてくるという様な、信者氏子が集まって来る事を願わなければならない。ね。本当なものを、そう簡単に広がるもんじゃないて。そういう様な事を、まぁ教えられたと、私は思います。ね。
そこで、ほんなら、そこから分からせて頂く事はです。ね。信心なければ世界は闇なりと仰せられるが、ね。その信心とはです、ね。自分の心に、光が点じられる。自分の心のなかに、光を感じられる。ね。そういう信心を目指させて頂く信心でなからなければならないかという事が分かりますですね。信心なければ世界は闇なりと。自分の心に光があれば、闇を感ずる事は要らんのです。ね。信心なければと仰る、その信心とは、心に光を頂くこと。しかもその光が、限りなく、ね。言うなら、五燭光から十燭光、五十燭光、百燭光という様に、段々、その光も大きくなっていく事を楽しみに信心していくと言うこと。そういう信心が、信心だという事になります。ね。その為にはです、例えば、今日は、色々に申してまいりましたが、最後に、今申しました、ね。何事にも信心になれよという、その信と言う事がです、ね。いよいよ、自分自身が分からせて頂くという事。いよいよ、自分自身の内容が分かってくると言うこと。そこに、初めて、屑の子の自覚が出来てくるのである。ね。本当に、私のような者にという事になって来るのである。自分と言うものを、見極めれば、見極めるほど、相すまん私であるという事が分かってくるのである。その、相すまん私であるのにもかかわらず、この様な屑の子である私にもかかわらず、神様が、この様なおかげを下さってという時に、初めて、神徳の中にあって、その神徳を見極める事が出来るのである。自分の周囲に、おかげが遍満しておるのである。神様のお恵みが、いっぱいな、その神様のお恵みいっぱいの中に、私共が、生かされて生きておるという事が分かってくるのである。神徳の中にあっても、氏子に信なければと仰る、ね。カンテラに油がいっぱいあっても、芯がなからなければ火が灯らんと仰る。神徳の中にあっても、おかげをおかげと感じきらんのは、私自身が本当に、私を見極め切ってないからだという事になる訳である。ね。それこそ、自分の手元、足元のところを、ぎりぎり、見極めさせて頂く生活。ね。そういう生活を、信心生活という事になるのじゃないでしょうか。自分と言うもの、自分ぐらいな者にという事になるのです。ね。そこに、初めてです、ね。不平不足も出ないだろう。腹立ちも、いらいらもなくなるだろう。私の様な者に、このようなおかげを頂いてという、自分の周辺の全てが、神のお恵み、神のおかげという事に気付かせて頂くのである。ね。なるほど、世界は、こうこうとした、神の恵みに照らし出されてくる、そのこうこうたる光をです、感じることが出来るのである。ね。
信心なければ世界が闇なり。だから、御道でいう信心と言うのはね。例えば、私の周辺だけでも、明るうなる様な生き方を、日々学ばせて頂いておる、稽古させて頂いておるというのでなからなければです。もう、あなたのは、信心じゃないという事になる。ね。それこそ、脱ぎ散らかしに、あの脇殿から上がってくる、ね。いわば、ご利益亡者だという事になるのである。ね。これならば、千万集まったところで、大した事ではないのである。ね。本当に、いわゆる、実のある信心というか、芯のある信心とは、教祖様は、その様な風に教えておられる。信とは、信心とは、わが心が、神に向こうのを信心と言うのじゃと、初めに仰っておられます様に、信心とは、わが心が、神に向こうていくという事は、ね。段々、心に光が点じられ、信心の喜びが点じられ、その喜びが、段々、大きくなっていくという事が信心なのだ。神様に向かって、進んでいくという事が信心なのだと教えておられますですね。どうぞ。